人生経験が読みを深くする

(この記事に出てくる生徒の皆さんにはエピソードの使用許可をいただいています。)

算数・数学教室をやっていて思うことがあります。人生経験がいろいろなものの読みを深くすることがあるのです。例として、いきなりですが、聖書から挙げますね。

私のことをQuoraでお知りになったかたもときどきおられると思いますが、Quoraにせっせと書いていたころの私は、聖書といえば、新約聖書の「マルコによる福音書」を読むことをすすめていました。いまでも聖書で最初に読むことをおすすめする書は「マルコによる福音書」に違いありませんが、あのころ(まだ1年くらいしか経過しません)から、2024年現在の私の「マルコによる福音書」の読みは、明らかに深まりました。これは、この1年強で、私は「星くず算数・数学教室」がまわり始め、いろいろな生徒さんとの交流が始まり、人生経験が深まって、結果、聖書の読みが深まった、としか言いようのない現象だと思っているわけです。聖書を読み始めたのは1999年くらいからで、聖書とは四半世紀の付き合いがあります。私は聖書全体を17回、通読しています。これは、クリスチャンであってもかなり多いほうです。(というか、私は自分よりも聖書を多く読んだという人に出会いません。それくらい多いです。)それだけ読んでも、なお、まだまだわかっていなかったことがたくさんあるのです。「ヨハネによる福音書」の言いたいことがわかりかけてきたのはもっと最近であり、昨年末(2023年末)くらいからで、ここ数か月のことです。これもたくさんの人生経験から「ヨハネによる福音書」の言いたいことがだんだんわかってきたのです。それはしばしば極めて屈辱的な人生経験によってかもしれず、非常に高い授業料を払っての理解だったりするかもしれませんが、結果として私の聖書の読みは、ここ1年くらいで、急速に「深化」しているのを感じます。

1年半前、ある小学生のお子さんの入門希望者のかたと「はじめましての会」をいたしました。私がそのお子さんから「算数の先生」と認識されたことは鈍い私にもすぐに察知できました。どういう文脈か忘れておりますが、そのお子さんは、りんごの話を始められました。私はりんごを想像し、そのような個数のりんごがあったら、かなりがさばるであろうこと、また、当教室のようにリモートだと、どこにお住まいかもわかりませんので、かなり、りんごが身近にあるところにお住まいなのか、とか思ったのですが、その生徒さんは、さらっとおっしゃいました。「算数といえばりんごの個数だから」。そのお子さんにとって、りんごとはもう抽象化されたものだったのです。そのお子さんの名誉のために申し添えますが、そのお子さんは入門なさり、それから1年半、私と一緒に数学を学び、数学への認識にかんして、長足の進歩をとげておられます。(そして、私も「算数の先生」というより、おそらくいい意味でただのおじさんと認識してもらえるようになったという気がしています。)

ある別の生徒さんです。このかたも小学生のお子さんです。ご自分で算数の問題を作っておいででした。「1メートルで260円のリボンがあります。A子ちゃんはそれを4メートル買いました。いくら払ったでしょう」。私が、1メートルで260円のリボンは相場か、おたずねしますと「仮想現実だからいいでしょう」とお答えになりました。この生徒さんは「悟りを開いて」おいでであり、算数とは総じて仮想現実であることを「悟って」おいでなのでした。

数年前のある算数の検定教科書に載っていたことです。100センチメートルで40グラムの毛糸についての問いでした。問いそのものはメモしておらず、どういう問いだったのかが記録されておらず、覚えてもいないのですが、ただ、以下はネット検索によれば信用できることのようです。すなわち、毛糸は1玉でだいたい100メートルであること、そして、セーターを編むのにだいたい10玉くらいの毛糸を要すること、です。これらをすべて信じると、1メートルで40グラム、1玉が100メートルで、40グラムの100倍で4キログラム、セーター1着の重さが40キログラムとなります。そんなに重いセーターは着られません!これは、教科書が間違えていたのです。「100センチメートルで40グラムの毛糸」ではなく「100メートルで40グラムの毛糸」と書きたかったのでしょう。これも、編み物をするかたなら、直観的に教科書の「100倍の間違い」に気づいたことでしょう。(だからすぐに教科書は訂正された。どなたかが教科書の出版社に連絡したと思われます。)いくら仮想現実と言ってもちょっとこれはね・・・(笑)。

中学の数学の教科書で「関数」の定義がしてあります。そして、その例として、25メートルのプールに水をはる話が出て来ます。水を入れた時間を${x}$時間とし、水位を${y}$センチメートルとして、${y}$は${x}$の関数だというのです。私は、25メートルのプールに水を入れた経験がありません。ほとんどの中学生がやったことのない仕事であると思われ、さらには誰の仕事かも知りません。体育の先生の仕事でしょうか。それにしても、この教科書によると満水になるのに15時間を要し、朝の7時からこの仕事を開始すると、夜の10時までかかります。私は、学校の事務の総務の経験があり、プールの修理を業者に依頼する仕事ならやったことがあります。プールというのはひんぱんに壊れるものであり、おおげさに言うならば100種類くらいの異なる部品や箇所があり、どこがどう壊れたかによって、修理を依頼する業者が異なるのでした。しかし、「プールに水をはる」という仕事はやったことがありません。(ついでにプールの修理そのものもやったことはありません。私がやったことがあるのは総務としてプールの修理の依頼を業者にすることだけです。)これは、なぜか教科書に載っている、はなはだ中学生、高校生には実感のわきにくい例だとも言えるわけです。ところで、「関数」の例をおたずねしたときに「プール」とおっしゃった生徒さんもおいでになります。これは先ほどの「算数といえばりんごの個数だから」という発想に似ており、「関数といえばプール」という発想でしょう。数にたいして数が決まる(「関数」)ものであれば、もっと身近にあるはずですけれどもね。(関数といえばプールとおっしゃった生徒さんも私のよき理解者となられました。)

ある生徒さんとは、哲学の本をご一緒にお読みしています。その哲学書を解説したある日本の哲学者の先生の解説書もご一緒に読んでいます。その先生は、その哲学書の意味するところの具体的な例として、「りんご」「新幹線」「東京駅」などを挙げておられます。その先生は、新幹線といえば「乗るもの」と認識しておいでのようです。どうやら、その先生は「典型的な大学の先生」であることがにじみ出てくるような例の出し方であると感じられるわけです。私も大学の教員に成っていた可能性があるので感覚としては理解できます。たとえばヴェネツィアに1週間、学会で滞在したりすることが日常みたいな先生ですね。ボストンに数か月滞在とか。私はまる1年か2年、いま住んでいる県から出ない、市からも出ないことがほとんどです。

2022年2月、急速に日本でコロナが流行しました。政府はしばらく手を打たなかったのですが、その月、2月27日に当時の総理大臣であった故・安倍晋三さんが「3月2日(翌週の月曜日)から全国の公立の小中高は休校」と発表したのでした。私はその日の日記に「この調子であらゆる仕事が休みになるであろう。しかし、最後まで休めない人がいる。それは、電気や上下水道、ごみの回収の人などだ」と書いています。実際にそのあと、「ステイホーム」が叫ばれ、また「エッセンシャルワーカー」という言葉も生まれました。私がその安倍さんの発表のその当日の日記にそのようなことを書いているのも、当時、学校の総務として勤務していたことが大きいです。ごみの回収は、毎月、請求書を書いていました。学校の教員であれば知らない、先述の「プールの修理」をはじめ「校舎や体育館の前のマットの交換」から「トイレのハンドソープの交換」などもろもろは総務が手配しているのでした。教員が、わいて出てくると思っているボールペンやごみ袋も、総務が購入して(税金も投入されているのも含む学校のお金から)、しかるべきところに配置しているのでした。だから、「ごみの回収の人は休めない」と私はその日の日記に書けたのでした。

「半径が1の球に内接する正四面体の1辺の長さを求めよ」。これは、ある大学の入試問題だそうです。「良問」とのほまれ高い問題だそうです。しかし、こういう状況は具体的にあるでしょうか。「球に内接する正四面体の1辺の長さ」を求めねばならない状況。しかしながら、こういう問いが解けないとたとえば医学部に入れないとしても、医者はこういう知識を使うのでしょうか。

というわけで、私の聖書の読みが、ここ1年くらいで急速に深化しているのは、おもに人生経験によると思われるわけです。生徒の皆さんにはほんとうに感謝しています。多様な生徒さんとの交流を通じて、私の世界は広がりつつあるのを感じています。それが典型的に「聖書の読みの深まり」などに現れていると感じられるわけです。算数や数学についてもそうです。皆さんに感謝しつつ、この長いブログ記事を終わりたいと思います。ここまでお読みくださり、ありがとうございました!

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